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豆知識・新着情報

2022/07/11 21:52

「あたぼう鮨」店主・藤川大輔インタビュー

(1973年4月1日生まれ、兵庫県姫路市出身)

テーマは「奪還と継承」。高級寿司店でも回転寿司店でもない「あたぼう鮨」の存在意義


残りの人生は、「日本の伝統的な食文化」に携わりたい

――「あたぼう鮨」をオープンした経緯。

今から8年前、当時はタンザニアの国立観光大学で調理のボランティア講師をしていて、現地の人に「日本人だから寿司作ってよ」って言われたのがきっかけかな。向こうで普段日本人と接することがないから、日本にいたときよりも日本人だというアイデンティティを強く感じて。その頃は40歳くらい。仮に職業的な人生を60代までだとすると、半分は終わっちゃっている。そう思ったときに、残りの半分は「日本の伝統的な食文化に携われるような仕事をしたい」と考えたんだよね。

――現地で寿司は握られたんですか?

当時は握れなかったんだよね(笑)。タンザニアに来るほとんどのツーリストはヨーロッパかアメリカから来るから、西洋人に馴染みのある料理を基礎から教えていて、オリエンタルなものはほとんど教えなかった。店をオープンすると決めてからは、職人さんを引っ張ってきて、基本は当時の大将やジンさん(現在の大将)に任せながら、僕も技術を習得していった感じかな。



――未経験からの寿司業界。それだけ、「伝統的な食文化」への強い思いがあったのですね。

僕が子どもの頃は回転寿司もそうそうなくて、まちの寿司屋が機能していた。例えば、冠婚葬祭でお寿司をとってもらうことは特別なことだったし、大人になればカウンターで寿司が食えるようになったら一人前みたいなところがあった。そこに年配の人がいて、社会の縮図を学ぶという大人のサロンみたいな機能があって。その文化が回転寿司ができたことでなくなってきた。今の若い人は生まれたときから当たり前のように回転寿司があるし、一方で銀座だったり高級寿司に行く人もいる。完全に二極化しているよね。

――回転寿司店にはまちの寿司屋の機能はないですし、高級寿司店は敷居が高すぎると。

そう。その中間となる店があまりない。だから、その中間となる店。みんなが自分で働いたお金で、本物の江戸前の仕事をしている寿司が食べられる店をやりたかった。本当にそういう店は少なくなってきているから。その目標のひとつが、「失われたものを取り戻す」こと。テーマは「奪還と継承」。その奪還をまずはやりたかった。

――そのテーマのもと、「あたぼう鮨」のリーズナブルな価格帯やカジュアルな雰囲気がつくられているのですね。

店名の通り、「当たり前のことを当たり前にやる鮨店」。仕込みは省こうと思えば省けるし、実際省いている店もあると思う。でも、うちはきちんとあたり前の仕事をして、そこに対してあたり前に払える金額で提供したいと思っている。その上で、店内はBGMをビートルズにしたり、タンザニアで出会った画家の絵(=下の写真)を飾ったり、テーブル席を多く配置している。お客さまには気軽に来ていただけたら。

――「継承」とは、その「当たり前の鮨店」のあり方を繋いでいくことでしょうか?

それもあるし、若い人に江戸前鮨の技術を伝えることでもある。穴子のECビジネスを始めたことも、より多くのお客さまに江戸前鮨を知ってもらうこととしては、継承のひとつの形。



酒屋の卸し、ホテルのフレンチ、給食センターを経てタンザニアへ

――ここからは、藤川さんが料理の世界に入ってからタンザニアに行くまでの経歴についてうかがいます。

そこまで深いキャリアがあるわけではないけれど、28歳頃にホテルのフレンチとかをやっていたのが始まり。それまでは、酒屋の卸しを5年くらいやっていて。だから、飲食に関わる人たちとの接点は多くて、厨房の中に入れてもらったり、食べに連れて行ってもらったり、いろいろ教えてもらって紹介で料理の世界へ。その後はタンザニアに行く前、33歳頃は小学校の給食センターで働いたよ。



――どうして給食センターで働くことに?

人生の最終的なゴールとか目的とか意識とかそういうのを考える時間が欲しかったから。それまでは日々、時間に追われて忙殺されていたし。考える時間もなく、知らない間に5年経つとかそういう状況は避けたかった。給食センターは定時で帰れるし、土日や春・夏・冬休み、運動会とかの行事も全部休みだったからね。

――勤務時間や日数が少ない分、給与は少ないですよね?

手取り15万円くらい。でも、その期間にバイトはせず、時間がある分いろいろなことを勉強して、実践した結果、不動産事業を始めたらうまくいって。そうこうしている間に、タンザニアに行く話になったんだよね。

――ついにタンザニアの話ですね。

当時は目黒に住んでいて、年1回、在目黒の外国人と東京都民とが触れ合うお祭りがあって。そこを手伝うボランティアをやっていたときに、JICA(国際協力機構)の在外事務所を歴任されていた方が海外ボランティアの話をしていて、縁があってタンザニアに行くことになった。僕自身は正直まったく行く気もなかったし試験も受かると思っていなかった(笑)。それが38歳くらいのとき。

10代から磨き上げてきたビジネス感覚と味覚

――38歳からの2年間のタンザニア滞在を経ての「あたぼう鮨」オープン。どうして荒木町に?

荒木町はそれまで来たことがなかったけど、不動産屋さんにいまの場所を紹介されて。四谷三丁目駅から車力門通りに入って5歩くらいで、「ここだ!」と思って。

――直感だったんですね。

そう。オープンしてからは、当時は周りに深夜や日曜に営業している鮨屋がなかったから、あえて深夜や日曜に営業したり、ファミリー層向けにベビーカーも入れるようにしたり、地元の人たちが来やすいよう工夫して。おかげさまで、今はそれが定着してきていると思う。



――改めて、江戸前鮨について教えてください。

元々は東京湾でとれていた魚介を使った鮨を江戸前と言っていたけれど、今は「仕事の仕方」を指すことの方が一般的かな。つまり、煮蛤、穴子、小肌とかを保存のためにひと手間加えること。江戸時代は冷蔵・冷凍庫もないし、生のままではもたないから、醤油漬けにしたり酢締めにしたり、煮たり焼いたり。あとは、上方の押し寿司や棒鮨に対して、江戸っ子ならではのせっかちな人が早く食べられるように生まれたとも言われている。シャリも関西は甘めで、江戸前はそんなに甘くない。僕が地元の姫路にいたときも、握りは少なくて、稲荷とか押し寿司、バッテラ、太巻が定番だったよ。

――藤川さんが初めて江戸前鮨に触れたのはいつ?

18歳で上京してきたとき。地元でも握りは食べたことがあったけれど、全然違う。「関西よりも美味い!」ってびっくりした。

――そんなに衝撃だったんですね。誰かに連れられて行ったんですか?

自分のお金で行ったかな。寿司屋に限らず、若い頃から勉強のために高い店に行くようにしていて。それは勉強のために。将来的にビジネスやろうと思っていたから、会食の際にどこの店になっても困らないようにしようと、マナーとか雰囲気とか。だから、フレンチ、天ぷら、中華もひと通り行った。

――予算的に、よく18歳から高い店に行けましたね。

当時は手取り33万+インセンティブで、タバコの営業販売を4年くらいやっていたから(笑)。そこから酒屋の卸しに転職。



――10代からビジネス感覚と味覚を磨き上げての現在。どうして煮穴子のECを始めようと?

お店に来られない人にも「あたぼう鮨」の味を届けたいと思った時に、江戸前の仕事と味をダイレクトに伝えられる「煮穴子」にしようと決めて。その魅力を広めていきたい。

――煮穴子を販売するにあたり、お客様にひと言お願いします。

正直なところ、店と同じように真剣に江戸前の煮穴子を作るとなると時間も人手もかかりますが、一層美味しい状態でお届けしたく、注文を受けてから仕込み始めます。そのため、少々リードタイムはかかりますし、原価を抑えるため、贈答用以外は簡易包装にしています。ただ、数ある冷凍煮穴子の中では一番真面目に丁寧に作っていると思います。「一番美味しい」と思ってもらえるものを提供したい。その一心で始めました。ぜひ、お店と変わらない本格煮穴子を味わってください!


撮影/真船毅士